ダウンタウンは、長年にわたり「面白いもの」として語られ続けてきました。まるで、お笑いの基準がそこにあるかのように。もちろん、好きな人が多いこと自体は否定しません。実際に強い影響力を持ってきた存在であることも事実だと思います。ただ、ダウンタウンの面白さが分からない人は、お笑いを理解していないように見なされる空気があったことには、昔から違和感がありました。
この記事の視点
これは、ダウンタウンが好きか嫌いかという話ではありません。問題は、ある笑いが長く権威化されることで、「面白いと感じるべきもの」になり、受け手の自由な感覚よりも場の空気が優先されることです。
笑いが権威になる時
お笑いは、本来かなり自由なものです。面白いと感じるかどうかは、人によって違っていて当然です。育ってきた環境、世代、見てきた番組、会話の感覚、嫌いなノリ、苦手な空気。笑いの受け取り方にはかなり個人差があります。にもかかわらず、ある特定の芸人や番組が「面白いもの」として固定されると、それを疑いにくい空気が生まれます。面白いと思わない人が、単に好みが違う人ではなく、分かっていない人として扱われる。そこに違和感があります。
番組を面白いと思うべき空気
年末や正月の特番などで、多くの人が当たり前のように楽しんでいる番組があります。そこには、番組そのものの面白さとは別に、「これは面白いことになっている」という前提があるように見えることがあります。視聴者も、出演者も、スタッフも、その前提の中で笑いを作っている。そう見えた時、笑いが自由な反応ではなく、空気への参加になっているように感じます。もちろん、空気を共有すること自体がお笑いの一部であることもあります。ただ、その空気が強くなりすぎると、笑っていない人が場から外れた人のように見えてしまう。
笑いが自由な反応ではなく、共同体への参加証明になるとき、私は少し息苦しさを感じます。
| 状態 | 起きていること |
|---|---|
| 自由な笑い | 面白いかどうかを受け手が自然に判断している |
| 共有された笑い | 同じ番組や文脈を知っていることで笑いやすくなる |
| 権威化された笑い | 面白いとされているものを疑いにくくなる |
| 同調圧力としての笑い | 笑わない人が分かっていない人として扱われる |
ご意見番化への違和感
松本人志さんは、お笑い界に強い影響を与えてきた存在です。その影響力自体は事実だと思います。ただ、その存在が大きくなりすぎると、お笑い以外の領域でも発言が重く扱われるようになります。芸人としての面白さと、社会的な判断力や倫理性は本来別のものです。しかし、笑いの世界で権威を持った人が、社会や政治や倫理についても重く扱われるようになると、領域の違いが曖昧になります。ここで起きているのは、面白さの評価が、そのまま人物全体の権威に変換されてしまうことです。
笑いを疑える余地が必要
笑いは、疑える余地を残しておいた方がよいと思います。有名だから面白いと決めつけない。みんなが笑っているから自分も笑う、で済ませない。批判しにくい空気そのものを疑う。笑いの好みは人によって違うと認める。お笑いとは、本来、人を自由に笑わせるものです。特定の価値観が長く続くことで、「これを面白いと思うべきだ」という空気ができるなら、それは笑いの自由さとは逆方向にあると思います。
確認したいこと
ある笑いが面白いとされているとき、それが自分の感覚として面白いのか、場の空気として面白いことになっているのかを分けて見るとよいです。笑いの好みが違うことは、理解力の不足ではありません。
まとめ
ダウンタウンを好きな人がいること自体は自然です。ただ、その面白さを理解できない人が鈍いかのように扱われる空気には違和感があります。笑いは権威ではなく、受け手の感覚に開かれているべきです。面白さが権威化し、「面白いと思うべきもの」になると、笑いは自由な反応ではなく、空気への参加になります。私が気になっているのは、特定の芸人や番組そのものよりも、笑いが権威になり、疑いにくくなる構造なのだと思います。

