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民主主義は恣意的な運用で壊れる – 政党、支援団体、説明責任を分けて考える

民主主義は、投票日だけで成立する制度ではありません。選挙、政党、行政、司法、報道、専門職団体、有権者の判断が、それぞれ一定の規律を保って動くことで、ようやく成り立つ仕組みです。だからこそ、制度の外形が残っていても、運用が恣意的になれば民主主義は壊れます。

2022 年に旧統一教会と政治の関係が大きく問題化したとき、私が強く感じたのはこの点でした。問題は、特定の宗教団体と政治家が接点を持ったという一場面だけではありません。票、動員、後援、推薦、祝電、会合参加のような政治活動の周辺部分が、どのような団体によって支えられ、その関係を政党がどこまで把握し、説明し、切断できるのかという問題です。

自民党は 2022 年 9 月に、旧統一教会および関連団体と関係を持たない方針を示しました。同月の記者会見では、所属国会議員 379 名全員から確認し、1 つでも該当する回答があった議員が 179 名だったことも説明されています。この数字だけでも、問題は一部の例外的接点ではなく、政党政治の運用に入り込んでいた関係として見るべきです。

民主主義は投票だけでは守れない

民主主義を単純に考えると、有権者が投票し、多数を得た政党や候補者が権力を持つ仕組みに見えます。しかし、投票者の意思が形成される過程、候補者が支援を受ける過程、政党が候補者を公認する過程、当選後に政策へ反映される過程が歪められていれば、投票という形式だけでは正当性を支えられません。

ここで言う恣意的な運用とは、明確な違法行為だけを指しているわけではありません。表向きは手続きに乗っていても、実質的には説明できない関係や、責任を引き受けない判断が積み重なる状態です。誰が支援したのか、何を期待して支援したのか、政治家はそれを認識していたのか、政党は把握していたのか、問題化した後にどのような検証を行ったのか。その説明が曖昧なままなら、制度は形式を残したまま劣化します。

選挙投票だけでなく、候補者選定、支援団体、動員、資金、情報発信まで含めて見る必要がある
政党所属議員の関係を個人任せにせず、組織として確認し、方針を守らせる責任がある
有権者政策名や党名だけでなく、その政党がどのような政治文化を維持しているかを見る必要がある
行政・司法人気や政治的都合ではなく、法令、証拠、手続きに基づいて対応する必要がある

旧統一教会問題で見えたのは制度の隙間である

旧統一教会問題は、宗教そのものへの好き嫌いで扱うべきではありません。信教の自由は当然に守られるべきです。一方で、違法な献金勧誘や霊感商法、生活を破壊するような被害が長期にわたり指摘されてきた団体と、政治家や政党がどのような距離を取っていたのかは、公共の問題です。

文部科学省は 2023 年 10 月、旧統一教会に対して解散命令請求を行う方針を説明しました。その会見では、報告徴収・質問権の行使、被害者からの情報収集、約 5,000 点に及ぶ証拠の整理などが述べられています。2026 年 3 月には、旧統一教会に解散を命じた東京地裁の決定を東京高裁が維持したことについて、文部科学省が見解を公表しています。

この後日談を踏まえると、2022 年時点で感じた違和感は、単なる感情ではなかったと思います。長期にわたる被害が問題化し、行政が証拠を積み上げ、裁判所の判断へ進んだ問題について、政治側がどの程度まで接点を持ち、どの程度まで自己点検で済ませようとしたのか。その点にこそ、民主主義の運用上の危うさがあります。

恣意的な運用は他の恣意的な組織を呼び込む

制度が恣意的に運用されると、それに適応する組織が増えます。政治家が票や動員を求め、団体が政治的影響力を求め、政党が勝つために関係を深く問わず、問題化した後は個人の認識不足として処理する。そういう運用が続けば、公共性よりも取引可能性が強くなります。

この構造は旧統一教会に限りません。業界団体、専門職団体、宗教団体、労働団体、地域組織、企業グループなど、政治は多様な団体と接点を持ちます。それ自体は民主主義の一部です。問題は、その関係が政策形成や候補者選定にどのような影響を与え、誰に利益を与え、誰に負担を押し付けているのかを説明しないことです。

民主主義は、きれいな個人が投票することで自動的に成立する仕組みではありません。むしろ、人間や組織が利害を持つことを前提に、その利害がどこまで見える状態に置かれ、どこから不適切な影響として排除されるのかを管理する仕組みです。ここを曖昧にすると、制度は簡単に利権の通路になります。

弱い人にリスクを押し付ける政治は社会を硬直させる

元の記事では、日本の大きな問題は、グローバル化や社会変化のリスクを弱い立場の人に押し付けてきたことだと書きました。この見方は今も変わりません。変化の利益は強い組織や既得権益が取り、雇用不安、低賃金、地方の衰退、社会保障不安、物価上昇の負担は生活者へ押し付けられる。その状態で、自己責任や努力不足だけを語る政治は信用できません。

政治が本来やるべきことは、変化のリスクを社会のどこに置くのかを設計することです。産業構造を変えるなら、失われる仕事、移動できない人、再訓練の負担、地域経済への影響を見なければなりません。税制を変えるなら、所得階層、家計、企業、世代間の負担を説明しなければなりません。規制を緩めるなら、誰が自由を得て、誰が不安定化するのかを見なければなりません。

それをせずに、強い側の都合で制度を動かし、弱い側へ負担を流す政治は、社会を分断します。分断された社会では、互いの生活条件が見えにくくなり、政策への合意形成も難しくなります。結果として、変化できない社会が固定され、さらに既得権益が温存されます。

政治家だけを責めても足りない

政治家の二枚舌や政党の説明不足は当然批判されるべきです。ただし、それだけでは足りません。恣意的な運用に乗る巨大な組織群があり、それを見逃す有権者がいて、勝てるならよいという空気があり、問題が表面化しても時間が経てば忘れる社会があります。ここまで含めて見なければ、同じ構造は何度でも戻ってきます。

特に自民党政治への不信は、個別政策の賛否だけではありません。問題が起きたときに、調査を限定し、責任を個人へ分散し、組織の構造を曖昧にし、時間の経過で沈静化させる政治文化そのものを支持できないということです。私はこの政治文化が嫌いです。既得権益を守るために、生活者や被害者や弱い立場の人が犠牲になる構造は、民主主義の外形を使った支配に近いと思います。

有権者側にも責任があります。政党名、雰囲気、景気の期待、保守らしさ、強そうな言葉だけで支持し続ければ、政党は説明責任を軽く見ます。政治家が有権者をなめるのは、有権者が説明を求め続けないからでもあります。民主主義を守るとは、投票することだけではなく、投票した後も説明を求め、次の選挙で判断を変える意思を持つことです。

民主主義を壊すのは一度の事件ではなく運用の蓄積である

民主主義は、ある日突然壊れるというより、壊れた運用を繰り返すことで少しずつ空洞化します。説明しない。調査しない。責任を取らない。関係を断ったと言いながら検証を曖昧にする。被害者より組織防衛を優先する。制度の趣旨より勝ち方を優先する。こうした小さな運用の積み重ねが、制度の信頼を削ります。

だから、民主主義を守るために必要なのは、抽象的に民主主義を称賛することではありません。どの政党が、どの団体と、どのような関係を持ち、問題化したときにどこまで説明したのかを見ることです。制度がどう書かれているかだけでなく、その制度を誰がどのように使っているのかを見ることです。

旧統一教会問題をめぐる政治の対応は、その意味で日本の民主主義の弱さを露出させました。制度は存在している。選挙も行われている。政党もある。報道もある。それでも、関係の実態、責任の所在、被害者への向き合い方、再発防止の仕組みが曖昧であれば、民主主義は中身から劣化します。

まとめ

民主主義は、制度の名前だけでは守れません。選挙制度があり、政党があり、議会があり、報道があっても、それらが恣意的に運用され、説明責任を果たさないまま既得権益と結びつけば、民主主義は形式を残したまま壊れていきます。

旧統一教会問題で見えたのは、単なる宗教団体と政治家の接点ではありません。政治が勝つために何を見逃し、政党が組織として何を管理せず、有権者が何を許してきたのかという問題です。

私は、こうした政治文化を支持できません。政策以前に、説明責任を軽く扱い、弱い立場の人へ負担を押し付け、既得権益を守るために制度を恣意的に使う政治を信用できません。民主主義を守るとは、制度を信じることではなく、制度を壊す運用を見逃さないことです。

参考資料

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