日本は、世界でも有数の民主主義国家とされている。
しかし、形式としての制度が整っているからといって、実質的な民主主義が機能しているとは限らない。
むしろ、日本ほど「民主主義の外観を保ちつつ、その中身が空洞化した国」は珍しい。
この国は、もしかすると将来、「民主主義の失敗国家」として歴史に記録されるかもしれない。
その兆候はすでに至るところに現れている。
1. 長期政権による支配構造と“選べない選挙”
戦後日本の政治を見れば、70 年以上のほとんどの期間を自民党が政権与党として維持してきた。
これは一見、政治的安定の証とも見えるが、実態は一党支配に近い。
さらに、小選挙区制度と一票の格差により、民意が選挙結果に適切に反映されない構造が固定化されている。
実際には国民が変化を望んでも、それを制度的に表現する手段が極めて限られている。
2. 政策の中身よりも、顔と派閥で決まる政治
本来、民主主義とは「政策と論理」に基づき候補者を選ぶ仕組みであるべきだ。
しかし現実には、世襲、派閥、メディア映えといった、
本質とは関係のない要素が政治家の地位を決める構造が蔓延している。
このような政治文化の中では、国民の意思や論点はほとんど意味を持たない。
「誰が言うか」だけが問題で、「何を言っているか」は重視されない社会になってしまっている。
3. 自己修正機能の喪失
民主主義の強みとは、間違いを選んでもそれを次の機会に修正できる「自己修復性」にある。
しかし日本の政治構造には、その機能が極めて弱い。
政権交代が現実的ではなく、仮に起きても制度や官僚構造に阻まれ、
抜本的な改革は実現しない。
問題は先送りされ、制度疲労が蓄積し続けている。
4. 政治的無関心と情報空間の閉鎖性
多くの国民は、「どうせ変わらない」という諦念の中で、政治的関心を失っている。
同時に、メディアは政権批判を避け、テレビや新聞は曖昧な言葉で国民の思考をぼかす。
SNS が存在しても、アルゴリズムは閉じた情報圏を強化し、分断を深めるばかりだ。
結果、国民の多くは「自由であるはずなのに、変える術を持たない」という矛盾した状況に置かれている。
5. 自由なはずなのに、何も変えられないという悲劇
独裁国家ならば、変えられないことには納得の説明がつく。
しかし日本は、「民主主義」という看板を掲げながら、
選んでも、声を上げても、行動しても、何も変わらない国家になってしまった。
これはある意味、独裁よりも深刻だ。
人々は自分たちに主権があると信じながら、実際には構造に呑み込まれ、静かに壊れていく。
未来の歴史書に、
「日本は形式的な民主主義を長く保ったが、最終的にはその制度疲労によって内側から崩壊した」
と書かれる可能性は、決してゼロではない。
民主主義とは、制度の形ではなく、それをどう機能させるかにかかっている。
そして今、日本はその機能を自ら放棄しつつある。

