アベノミクスの再放送が限界を迎えている
いまの高市政権を見ていると、政策の核にあるのは新しいビジョンではなく、かつてのアベノミクスの再放送に近い。円安を肯定し、財政を拡大し、賃上げに期待する。この三本柱は 10 年前なら確かに「刺激策」として一定の効果を持っていた。しかし今は状況が根本から変わっている。
問題は、アベノミクスが「まだ続くべき挑戦」であるのではなく、すでに終わったはずの実験が、構造を変えられないまま延命処置として続いてしまっていることだ。金融緩和は副作用が積み上がり、財政出動は恒常化し、円安は“競争力”ではなく“依存”になった。
賃上げも同じだ。春闘の華やかな数字が報道されても、多くの人の生活実感は変わらない。むしろ、物価高と実質賃金の低下で生活の余裕は細っている。つまり、政策の結果として企業の利益は保たれやすくなる一方で、国民の可処分所得は減り続けている。
アベノミクスそのものを完全否定するつもりはない。ただ、本来は数年の「ショック療法」に近い政策を、構造改革の代用品として 10 年以上も続けてしまったことが問題だ。金融政策に頼り続ける政治は、金融政策以外に打つ手がなくなった政治でもある。
高市政権はその延長線にある。むしろ、延長ではなく停滞に近い。構造改革を避け、既存の支持基盤に不利益が出る手段を避け、結果として“アベノミクスの再放送”が唯一の政策選択肢になってしまっている。
この国の経済が揺れやすくなっている理由は、ここに集約されている。国家としての設計を更新しないまま、古い枠組みを引き延ばしている状態。それが限界に達しつつあることを、今の市場も社会も示している。
円安依存が生んだ二重構造
いまの日本経済を見ていると、ひとつの歪みが際立っている。それは、円安が企業を延命させる一方で、生活者には重い負担として跳ね返るという二重構造だ。円安によって恩恵を受けるのは輸出企業や外貨収益のある大企業であり、その利益が決算数字に素直に反映される。いわゆる「円安メリット」だ。
しかし逆側の風景はまったく異なる。日本はエネルギーも食料も原材料も輸入依存が高いため、円安はそのまま生活コストの上昇につながる。電気代、食品、日用品、ガソリン、物流コスト。すべてが家計の圧迫要因になる。結果として、 企業の利益と国民の実質賃金が逆方向に動くという異様な現象が続いている。
そしてこの現象をさらに悪化させているのが、“政策としての円安容認”だ。本来、通貨安は副作用を伴う短期的な景気刺激でしかない。ところが日本は、金利正常化を避け、巨額の財政出動を続け、結果として円安が“常態”になってしまった。これは、輸入依存国の経済としては本来あり得ない設計である。
なぜそんなことが続くのか。理由は単純だ。円安が企業の数字を保ってくれるからだ。企業が利益を出していれば、株価は下がりにくい。株価が支えられれば、政権は「成功している」という物語を語りやすい。だが、その裏側で家計の実質購買力は削られ続け、生活の余裕は失われていく。
つまり、円安依存が固定化した結果、日本は「企業は延命されるが、国民は疲弊していく」という二階建ての構造に陥った。これはすでに政策の失敗というより、構造としての破綻に近い。
このまま円安前提の政治を続ければ、国民はさらに貧しくなり、消費は落ち込み、経済の土台そのものが縮んでいく。企業の延命が国の延命と同義ではないという当たり前の事実に、そろそろ向き合う必要がある。
トリプル安が示す日本経済の脆弱性
日本はいま、世界でも珍しい「トリプル安」に足を踏み入れている。円が売られ、株価の実質価値が目減りし、国債まで不安視され始めている状況だ。本来、この三つは同時に弱くなることはほとんどない。景気が良ければ株が上がり、通貨も強くなり、国債は安定する。それが経済の自然な姿だ。
ところが日本は逆方向へと動いている。円は歴史的な安値圏に沈み、国債は信用不安や海外投資家の売りで値崩れし、株価は円安によって“見かけ上の高さ”だけを維持している。これは単なる市況ではなく、国家システムとしての脆弱性が露わになった形といえる。
特に深刻なのは、日銀が金利を正常化できないという構造的な制約だ。金利を上げれば国債価格が急落し、銀行や年金など国内金融機関が傷つく。金利を上げなければ円が売られ、物価がさらに上がり、国民生活が圧迫される。要するに、どちらを選んでも痛みが出る。
この“どちらも選べない状態”こそが、トリプル安の正体である。政策が遅れた結果でもなく、官僚のミスでもない。これは構造的な袋小路だ。
そして市場は構造を敏感に見抜く。それが「日本だけが揺れ続ける」という現在の相場の特徴を生んでいる。他国がインフレや金利をひとまず制御しつつある中、日本だけが“動けない国”として浮き上がってしまった。
高市政権がこの構造を直視できない限り、トリプル安の揺れは止まらない。そして、この揺れが次の大きな危機の引き金になる可能性すらある。
高市政権の外交姿勢と対中関係悪化
高市政権になってから、日本の外交はこれまで保ってきた“微妙な均衡”を失い始めている。外交とは、価値観の異なる国家同士が衝突しないように、互いの立場を調整しながら距離を取る作業だ。ところが最近の発言や態度は、その調整装置を外しにいくような危うさが目立つ。
象徴的だったのが、台湾有事を巡る一連の発言だ。高市首相が「台湾」というキーワードを使ったかどうかの言葉尻よりも問題なのは、その“表現の空気”だ。国際社会では、微妙な表現をずらしながら衝突を避けるのが外交の基本だが、今回はその一線を越えた印象を与えてしまった。発言の正確性よりも、“普段からどういう立場に属しているか”が透けて見えるのが外交の怖さだ。
その結果、中国の反応は激化し、経済面への影響が急速に現れ始めている。対中インバウンドは急減し、観光業だけでなく地域経済全体への打撃が出ている。約 1.8 兆円規模の消費が消失したという試算すらある。そして、より深刻なのはレアアース、半導体素材、工業部品といった“日本が依存する供給側”に対する報復の可能性だ。
外交の危機は、必ず経済の危機を連れてくる。中国は日本にとって最も大きな貿易相手であり、代替不能な供給源でもある。ここを刺激し、緩衝を壊してしまうと、経済そのものが揺れ始める。これは単なる「失言」では片付かない。国家運営のリスク管理そのものが揺らいでいるということだ。
そして、高市政権の姿勢にはもう一つ問題がある。それは、「外交は国内向けのパフォーマンスではない」という基本に対する理解の弱さだ。国内の支持層へのメッセージとしては強硬に見える発言も、国際的には軍事的シグナルと受け取られる。日本がこれまで長い時間をかけて築いてきた“静かな外交スタイル”を、一瞬の空気で壊してしまった。
対中関係の悪化は、今後の日本経済にとって最大級のリスクの一つになる。外交が不安定になれば、インバウンド、輸出、供給網、投資、すべてが揺れ始める。これは政治的立場の右左に関係なく、冷静に直視すべき現実だ。
日本発リセッションの可能性
世界経済を眺めると、次の大きなリセッションの震源が日本になるかもしれない。そう考える理由は、単に景気が悪いからでも、円安が進んでいるからでもない。もっと複雑で、もっと深い構造的な問題が重なり合っているからだ。
まず、日本は「金利を上げられない国」になってしまった。金利を上げれば国債価格が崩れ、膨大な国債を抱える国内金融機関が直撃を受ける。逆に金利を上げなければ円安が進行し、物価高によって家計が限界に追い込まれる。国内の金融・家計・財政が綱引きになり、どちらも選べない。
しかし、この金利制約には“もう一段深い”理由がある。それが 円キャリートレードの巨大化 だ。
日本の超低金利は長年、世界中の投資家にとって格好の資金源だった。投資家は円を借り、円を売り、より高利回りの通貨や資産へ投じる。この仕組みが世界中で積み上がり、円キャリーはすでに一種の“国際金融システムの部品”になっている。
そのため、もし日本が金利を正常化すれば何が起きるか。
世界中の円キャリートレードが一斉に巻き戻される。借りていた円を返すため、大量の円買いが発生し、円が急騰する。円の急騰はリスク資産の売りを引き起こし、新興国通貨や株、債券市場に波及する。
つまり、日本の利上げは国内だけでなく、世界経済そのものを揺らす“逆回転”のスイッチになりかねない。
この状況は、日本が金利を上げられない“もう一つの理由”だ。利上げしないと国内が揺れ、利上げすると世界が揺れる。
そして、利上げができないまま円安と物価高が進めば、家計は消費を落とし、経済は縮む。消費の減退は税収を押し下げ、財政負担を増やし、国債市場はさらに不安定化する。外交面でも対中関係の悪化が供給網や輸出入に影響を与え、外部ショックが国内の脆弱性を増幅する。
金利、通貨、家計、財政、国際金融、外交。これらが同時に限界へ向かっている国は世界に日本しかない。
だからこそ、「次のリセッションは日本がトリガーになる可能性がある」という視点は、決して悲観ではなく、構造に基づいた現実的な分析だ。
日本は今、世界の経済構造の中で“動けないまま揺さぶられ続ける国”になりつつある。
なぜ日本は“選択肢のない国”になったのか
現在の日本を見ていると、政治にも経済にも「幅」がない。問題が起きても、政策の打ち手はワンパターンで、構造が変わらないまま延命策だけが続く。まるで選択肢そのものが消えてしまったかのようだ。
なぜここまで動けない国になってしまったのか。理由は単一ではなく、文化・政治・経済の構造が複雑に絡み合っている。
まず、日本は長い間、「失敗したら終わり」という文化のもとで運営されてきた。リスクを取らず、前例を踏襲し、失敗を避けることが最優先になる。政治家も官僚も同じで、構造改革のような“痛みを伴う決断”は、キャリアや支持基盤にとってリスクが大きすぎた。その結果、改革は先送りされ、短期的に見栄えの良い政策だけが繰り返されてきた。
次に、日本の政治が大企業中心に組み立てられてきたという問題がある。大企業を支えるための政策は多数あるが、逆に大企業の構造的な問題を直す政策は少ない。なぜなら、そこに手を付ければ政治的な支持が失われるからだ。結果として、「企業は延命され、国民は疲弊する」という奇妙な状態が固定化された。
人口構造の問題も大きい。高齢化によって有権者の中心がシニア層に偏り、彼らにとって不利な改革は票になりにくい。少子化で若年層は政治的な力を持てず、将来世代に必要な政策よりも“今を守る政策”が優先される。この構造が、改革をさらに遅らせる。
また、政策決定が「増税・緩和・補助金」という単純な枠組みに閉じてしまったのも特徴だ。本来なら、社会設計や制度改革に踏み込むべきところが、表面的な財政出動や金融緩和でごまかされる。その場しのぎの連続が、国を“選択肢のない状態”へと追い込んだ。
そして極めつけは、日本人の多くが「現状維持」を無意識に選び続けてしまうことだ。変化を恐れ、失敗を許さず、声を上げる文化が根付かない。この文化的な土壌が、政治の鈍化と経済の停滞を支えてしまっている。
つまり、日本が動けなくなったのは、単なる政治の怠慢でも、失政でもない。国全体の文化・政治・社会が絡み合った結果、「変わるための選択肢」を自ら閉じてしまったのだ。
この国の問題は、単に“間違った政策”を直せば解決するようなものではない。もっと深い層で、社会の設計そのものを見直す必要がある。
長期的な視点で求められる“日本の再設計”
ここまで述べてきたように、日本が抱える問題は政策の失敗や一時的な経済不調では片付かない。政治文化、金融構造、外交姿勢、人口動態、そして社会の価値観が複雑に絡み合い、国家の根幹そのものを揺らしている。だから必要なのは、「政策の修正」ではなく、国のシステムそのものの再設計だ。
再設計とは、単純な改革案を並べることではない。抜本的な問いを立て直すところから始まる。
日本はどのような社会を目指すのか。誰のために、どんな構造を作るのか。痛みを避け続ける政治を続けるのか、それとも長期的な成熟を選ぶのか。
まず必要なのは、金融政策と財政運営を“延命措置”から解放することだ。金利が動かせない状態は、主権国家としての機能を奪う。金利正常化は痛みを伴うが、それを避け続けた結果、日本は動けない国になってしまった。ここを変えない限り、通貨の信頼も、財政の健全性も戻らない。
外交も再設計が必要だ。明確な主張を持ちながらも、衝突を避け、緩衝を維持し、国益を損なわない姿勢が求められる。強気の発言で喝采を得ても、それは国内向けの感情の満足に過ぎず、国際的には安全保障リスクになる。外交とは「怒らせず、軽く見られず、距離を保つ」というバランスの技だ。これを取り戻さなければ、経済も社会も安定しない。
また、政治構造そのものを開いたものにすることも不可欠だ。失敗に寛容で、議論ができ、支持基盤に縛られない政治。痛みを伴う改革が“政治的自殺”にならない環境が必要だ。これがなければ、どれほど優秀な人材が政治に入っても、構造は変わらない。
社会の価値観も更新しなければならない。「失敗したら終わり」という前提を捨て、挑戦を評価し、失敗を学びに変える文化を育てること。声を上げる人が孤立せず、思考することが尊重される社会にすること。これがなければ、政治も経済もいずれ同じ停滞に戻る。
再設計とは、すべてを壊すことではない。この国が本来持っている力——技術、勤勉さ、調和を重んじる文化、長期的視野を忘れない国民性——を、現代に合わせてアップデートすることだ。
短期的な視点で語られる政治が続く限り、日本は延命しながら衰退する。だが、長期的視点を取り戻し、国家システムを再設計できれば、日本は十分に立て直せる。問題は、国が変われるかどうかではなく、「変わろうとする意思を持てるかどうか」だ。
これは批判の終わりではなく、未来へ向けた問いの始まりである。

