ダウンタウンは長年にわたり「面白いもの」として語られ続けてきました。まるで、お笑いの基準がそこにあるかのように。ダウンタウンの面白さがわからない人は、「お笑いを理解していない」と見なされるような空気すらあったように思います。
しかし、私自身は昔からその面白さを十分に理解できず、周囲との温度差に違和感を抱いていました。例えば、毎年のように正月特番「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」が放送され、多くの人が当たり前のように楽しんでいましたが、私はそこに“笑わなければならない”という空気を感じていました。視聴者も、番組のスタッフも、あたかも「これは面白いものだ」と前提づけられたうえで、笑うことを求められているように思えたのです。
松本人志さんは「面白いものは面白い」と絶対的な評価軸を持ち、お笑い界にカリスマ的な影響を与えてきました。その存在が同調圧力を生み、お笑い以外の領域でも「ご意見番」として発言することに違和感を抱く人も少なくないのではないでしょうか。
最近では、芸能界の裏側が暴かれ、これまでの「権威」や「常識」が揺らぎ始めています。人は頂点を極めると、刺激を求めるあまり、常識を逸脱することがあるのかもしれません。しかし、それが許されるような空気が醸成されていたこと自体が問題なのではないでしょうか。
お笑いとは、本来、人を自由に笑わせるものです。しかし、ある特定の価値観が長く続くことで、「これが正しい笑いだ」「これを面白いと思うべきだ」という同調圧力が生まれ、やがて批判しにくい空気ができあがります。この構造は、お笑い業界に限らず、日本の社会全体にも通じるものがあるように思います。
例えば、日本の企業文化には「トップの意見に逆らえない空気」や「長く続いているものは正しい」とする風潮が根強く存在します。このような固定観念が、新しい価値観の芽を摘み、組織の硬直化を招いてしまうのではないでしょうか。
だからこそ、私たちは何かを「面白い」と感じるときも、無意識に流されていないかを自問する必要があります。本当にそれが面白いのか、それとも「面白いことになっている」からそう感じているのか。自分の感覚を大切にし、思考停止に陥らないことこそ、自由な笑い、ひいては健全な社会を守るために不可欠なのではないでしょうか。